幕末のことです。慶応3年最後の将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した大政奉還がおこなわれました。江戸から明治に変わり、全国の藩は県へと移行しつつある時、藩のシンボルであるお城の多くは廃城の運命となり、解体されるお城もありました。例えば、伯耆国の米子城は払い下げられた後、切り売りされ、暖をとるため、風呂の薪とされたとも伝えられています。城跡は残るものの、姿・形は無くなってしまいました。
松江城は明治4年、廃城が決まり、その後、利用できる釘やかすがいなど金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されることになったようです。
米子城と同じく、天守が薪となる危機を救ったのが、元松江藩士高城権八と、出雲郡出東村(現斐川町坂田)の豪農勝部本右衛門でした。高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営を行っており、公私にわたり、親しい間柄でした。その時、松江城を管理していたのは、陸軍広島鎮台。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い「入札額と同金額を納めるから、せめて天守閣だけでも残してほしい」と懇願しました。天守閣の入札額は180円、同金額を納めたと伝えています。
こうして高城と本右衛門の努力で松江城天守閣は残りました。彼らのお陰で、全国に現存する十二天守の一つとして、今も戦国の威風を漂わせて、松江の町を見守っています。(松江城大手前「松江城保存につくした人たちの案内看板」より一部抜粋)
松江城築城の話ですが、天守台の石垣が上手く築くことができず、誰かを人柱として固めることになりました。そして、お城で開かれる次の盆踊りの参加者から選ぶことになり、若い少女が選ばれ、崩壊したところに人柱となって土台を支えた伝説が残っています。(天守近くの看板より)
また開城の際、松江大橋の架け替えが行なわれましたが、基礎が固まらないので、翌朝一番に通った源助が人柱となって支えることになったという逸話もあり、源助の碑として今も南詰に残しています。松江では築城や公共事業のために、昔から庶民の献身があったようです。(や)